メインはダイビングとシュノーケリングナイトカヤック etc.
友人と2人で行ったのだけど いつの間にか
オプションツアー 4 ディナー 2 全ての下調べと予約までを一人でやり
そこまではよかったものの現地での予約トラブルが重なり
だいぶストレスに悩まされてしまった
パラオは大きい会社だと基本日本人担当者がいてくれてだいぶ助かりますが
インターネット環境が悪く送信トラブルもしばしばあるそう
そして今回は予約したのにホテルに届いた案内では全く違うツアーであったり
予約してないツアーの案内があったりとかなり焦り初日は眠れず。。
また相方は相方で当日にもツアーの内容を理解しておらず
なんでもかんでも私に頼りまくりで
精神的に色々とまいってしまうこともありました
ですがそんなストレスを吹っ飛ばしてくれるような
素晴らしい自然と時間の流れ!
勢いで来てしまったパラオ旅行だけど
なんだかんだでよかった部分もたっっくさん
私が調べまくったパラオの歴史と感じたことを記します
そして日本人が知るべきパラオと日本の深い歴史の話

15年のドイツ植民地時代後に”パリ講話会議”により日本委任統治時代が31年間あった
この時厳しい日本教育が行われたので
現存する日本語が数多くあり(400語くらい)年配の人は日本語喋れる人多数
旅行中耳にしたのは「ダイジョーブ」 「モンダイナイ」 「ベントー」とか
現在の現地人はパラオ語、英語を喋りますがこれがかなりクセのある英語
タクシーの運転手のおっちゃんがひたすら台湾人と中国人について陽気に何か喋っていましたが全く聞き取れず。。
そして正月に汁粉を食べる風習もこの時からだそう
日本統治直前はスペインによる圧政や天然痘で6万いた国民が6千まで減少
整ったインフラや医療施設もなく 自然の中で暮らしてるような状態
あらゆるものを搾取し 略奪するひどい植民地政策だった
その後日本統治になったことでビール工場、缶詰工場、農作物等で雇用を生み出し
学校、病院、水道、電気等のインフラが徹底的に整備され
日本人は彼らと一緒に働いた
太平洋戦争前に パラオ人の3倍の日本人が居住したのは
建築業者、教師、行政官吏等を派遣したから
これらのことは現在のパラオの国定の教科書に大きく書かれているそう
そして日本人とパラオ人は本当に仲が良くて一緒に歌を唄って酒を飲むなど
とても平和な暮らしだったそうですが平和な日々も続かず
アメリカ軍がペリリュー島に攻めてくる
日本兵はその前に戦場となるペリリュー島を彼らは兵隊ではないからと本島へ避難させた
そしてもしかしたら勝てないかもしれないとも感じながら
パラオを守る為に全力で戦った
その後司令塔の中川隊長の元へ
パラオ人の代表者が船で来島し「一緒に戦わせてくれ」と願い出ました
普段温厚な隊長は
「貴様らごとき土人と共に誇り高き日本人が戦えるか!出て行け!」
白人が使っていた差別用語の”土人”という言葉で彼らを追い返しました
呆然となった彼らが離島した直後
近くに隠れていた日本人兵が全員出て彼らを「元気でなー!」と見送った
中川隊長の言葉はパラオ人を守るための必死の嘘だった
圧倒的な人数と兵器の数に日本人は3日で玉砕すると言われていたが
3ヶ月間必死で彼らは戦い抜いた
守備隊の抵抗力は凄まじく二度の上陸を阻止
オレンジビーチは真っ赤な血に染められた
食料もないまま怪我をしたまま何日も洞窟に身を潜めながら
必死で8,844人のアメリカ兵を殺した
洞窟からの攻撃は予想外のものだったらしい
それでもすかさず火炎弾を投げ込まれてもじっと耐えていたそう
守備隊は最後に玉砕の意味を示す暗号「サクラ、サクラ」を送った後も戦い続けた
アメリカ統治になり日本人と作ってきた畑、神社等日本を象徴するものは破壊された 教科書にも日本人がパラオ人をたくさん虐殺したと書いたが誰も信じなかった
パラオは法律で先祖の歴史を掘り返したり壊したりしてはいけない法律があり
ペリリュー島や海中等に戦車、防空壕等がそのまま残っている
普通であれば外人の慰霊塔は建てないが
パラオ人はペリリュー島の1万以上の日本兵隊の戦没者を湛え
慰霊塔を建てて清掃した

すごく深い絆で結ばれていたなんて全然知らなかった
どうして日本は他国の悪いところばかり私たちに教え込もうとするのだろう
あんなにも暖かく向かい入れてくれる場所をなぜ私たちは知る術がないのだろう
日本にはない雄大で南国の美しさに溢れた586の島々からなるパラオ共和国
実際に訪れて歴史を知った上でもっとこの国を好きになる日本人が
ひとりでも多く増えて欲しいと心から願います
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