自分の中の気持ちを整理する為に
この気持ちを忘れない為に
そして少しでも父に伝わればいいなと思いながら
お父さんは単身赴任で小さい頃から遠い埼玉で単身赴任だった
小さかった私は父に会えるのが楽しみで、会った時に喜ばせたくて似顔絵を描いたり手作りのトロフィーをあげたりした
そして父の膝上に座るのが好きで父にお酌するのも好きだった
父も大好きな野球を見ながら嬉しそうだったように思える
今思えば仕事一筋で家族と離れて働く父は本当に寂しい思いとつらさをたくさんたくさんしてきたんだろうなと今になって思う
今じゃ遅いなんて分かり過ぎてるんだけど
私が成長するにつれて家族との心の距離もどんどん離れていってしまって私はいつの間にか家族の前ではうまく喋れず、笑うことも出来なくなってしまった
あんなに話すことが好きだったけど学校でも何も喋れなくて学校が何より苦痛でしょうがなかった
いつのまにか親が私を理解できなくなってきたのと同時に私はどんどん独りになって真っ暗な闇のほうに行ってしまった
そんな自分をどうしていいのか分からなかったし親はもっと分からなかったことだろう
記憶は薄いけど私が中学から高校にかけて父の糖尿病が始まっていた
結果的にその病気に21年、こんなに苦しむことになるとは誰も予想出来なかった
その時から左眼はもう光も感じれなくなっていたようだ
父はまだ50代で若くまだまだ仕事をしたかっただろうにトラックを使わなければならない仕事だったので仕事を引き払いざるをえなかった
どれだけ打ちひしがれたのだろうか
私はこの時に父が手術をしてたとかどんな病気かとか後になってから聞いたように思える
心配をかけないようにと母親は私に父のことは話さなかったんだろうか
私は病気になり始めた父への記憶が全然ない
父がいつから実家に戻ってきたのかも全然覚えていない
なんでそんなことも知らなかったのか
今になっては全然分からないんだ
家に戻った父は大好きなお酒を毎晩のように飲んで酔っていた
そして母が野菜多めの料理を作り始めるようになった
闘病生活を続けても唯一見える右眼の視力も徐々に見えなくなっていった
正直病気のことは私も兄も全く関わる事がなく、母親は全てを自分1人で引き受けてしまった
私たちに迷惑をかけないようにと
それ故、私も兄も病気についての詳しいことは正直ほとんど知らないんだと思う
母も自分から話すことはほとんどないし私も何を聞いていいのか分からなかった
何か間違えてたかもしれないけどもうどこから間違えてたのか検討もつかない
私1人の力ではどうしようもなかった
視力が奪われていく父と同時に体重も体力も奪われていく父の姿はどんどん変わっていった
次第に杖を付くようにもなり、満足にトイレにも行けないようになってしまった
母親はもう誰がどう見ても父の介護者になってしまった
目が見えず満足にならずに弱くなった自分の身体に抱えた父のストレスは相当なものだったろう
プライドも高く常に母を怒鳴るようになり、何かうまくできないことがあると叫び出す
次第に母親の精神も蝕み、助けて欲しいと連絡をもらって再会した母は私でもどうにもできなかった
精神病院にも通うようになり、一度実家で親の面倒を見ると約束したものの私はどうにか実家を出させて欲しいと父にお願いした
そこから私は海外へ行き、帰国後も実家にはどうしても会いたくなくて新潟へ行った
職探しで長野に落ち着いたが私はそこからほとんど実家へ帰ることがなかった
千葉に台風の甚大な災害が起き、私は数年ぶりに連絡もしないまま実家へ向かった
母は普通に戻ってたようだったが私を父と会わせたくなさそうだった
そこから私は一度も実家に戻らなかった
夏におばちゃんがいつ逝っちゃうか分からないんだからお願いだから帰っておいでと頼むので帰省するつもりで電話をかけた
だがコロナ禍で父がコロナになった場合のことを考えると帰ってきてほしくないというのと
前よりも怒鳴りようが酷い状態の父親を見せたくなかったようだ
そして2021年12月20日(月)
出勤しようと車を暖気し、すぐにでも出勤するところだった
突然母からの携帯が鳴りやばいと感じた
父が心肺停止になったと救急車の中から連絡があった
電話を替わって救急隊員の方とも話をし、すぐにでも帰らなければならないのを理解した
まずは混乱しながらも涙声で社長に理由を話し、しばらく会社を休むことを伝えた
現場監督にも連絡した後でまずどうやって帰るか、何を持っていかなければならないのかすぐに行動に移すことができなかった
そうしているうちにおばちゃんから母から連絡はあったのかと聞かれ、しばらくしたらまた連絡があるものと思いなさいと言われ、最初はその意味が理解できなかった
1時間くらい経った後母から再度連絡があった
お父さんが亡くなったと
母親は救急車の時からとても動揺していた
父が心肺停止になる前、簡易トイレを済ませた父は立ち上がりベッドに戻った
父の様子が急変し、父は心配停止になった
掛かりつけの病院の緊急に行こうとしていたがそれではまずいと判断し、母は救急車を呼んだ
救急車が来るまで母は救急隊員の方と電話をしながら心臓マッサージをした
10分くらいして救急車は到着した
いつかは母もこういう時がくるのかもしれないと覚悟はしていたかもしれないが、その時の母の心情を思うとどれだけつらい中頑張ってくれたんだろうかと胸が締め付けられる
私は5時間以上かけて車で向かったが病院に着いた頃には父の遺体はとっくになかった
病院の霊安室に何時間も置いておくことはできないので警察のほうに連れていかれたのだ
自宅でなくなった為にどんなに疑いがなくても父の体は異常がないか検査される
自宅のほうも徹底的に調べられる
部屋の写真、家の外、ゴミ箱の中、処方していた薬の全てを写真に収めた
父の学校の経歴を聞いたり、直前に何をしていたのか徹底的に調書を取られる
悲しみに打ちひしがれている人に対して現実は残酷なものだった
夕方に自宅に着いた私は葬儀屋の方が父の遺体を自宅に運んでくれるのを待った
数年ぶりに対面した父の顔は一生忘れられなそうだった
さらに細くなり目が少し開いて口から魂が抜けたという感じで大きく口を開いていた
大人になってから私は遺体を見るのが初めてだった
本当に衝撃的で変わり果ててしまった父の姿に必死で涙をこらえた
真っ白でもう生きていないのだとちゃんと実感するのがものすごくつらかった
この日は遠出の疲れも感じることなく、ほとんど眠れないままたくさん涙を流して一晩過ごした
悲しみに打ちひしがれる間もなく母はたくさんのことをやらなければならなかった
病院で検案書を受け取り、警察から死亡届を受け取る、市役所へ行って埋葬の手続きをしなければならなかった
その後葬儀屋と何度も打ち合わせをし、親戚とも打ち合わせを重ねた
私ができることはほとんどなくできることがないことが本当に申し訳なかった
結局泣くそぶりは一度も見せず母は明るくしていたらお父さんが喜ぶと思ったのかずっと明るくふるまっていた
父が自宅に戻った翌日に父の顔にメイクが施された
それは想像以上に衝撃的なもので目の下、鼻、喉にかけてもう入らないのではないかと思うほどの綿が入れられた
男の方で最初驚いたがこれは力が要る作業なのだと納得した
父の顔は見違え、微かに微笑んでるような今にも起き上がりそうな顔を見せてくれた
亡くなった3日後に通夜で翌日が告別式だった
どれもちゃんと経験するのが初めてで、葬儀場に到着して祭壇に飾られた父の若い時の写真を見ただけで涙が出そうになった
お父さんとお別れをしなければならない
もう本当に最後なんだ
通夜には父の中学の同級生も来てくれ、終了後私は葬儀場の方と父はどんな人だったか少し語っていた
翌日の告別式、父に皆で手紙と花を手向けた後に棺の中に様々なものを入れた
まずは父が旅の途中でお腹をすかせ喉が渇かないように家にあったお茶とお米を持たせた
そして家族を連れていくことはできないがお守りとして家族の髪と爪を持たせた
それから父が好きなもの、ジャビットのぬいぐるみ、甘いあんこのお菓子、父が病気になってから旅をした印の4冊の御朱印、改めて見ると父が一人でどれだけ闘病の中歩いて旅をしたのか思いを巡らせた
そしてとても嬉しかったことが、葬儀場の方が私から父がどんなものが好きだったのかを覚えていてくれて、お酒とあんみつをいくつか用意してくれていたのだった
確かに父に足りないものだったので父は喜んだにちがいないと思い、用意してくれたお心遣いにありがたい気持ちでいっぱいになった
たくさんの花とお土産をいっぱい持って父は霊柩車に乗った
1時間以上かけて父は御骨になり、私は全てを伝えきれたのか少し複雑な気持ちのまま納骨になった
父は家からすぐ近くの樹木葬のあるお寺へ納骨された
納骨への向かうまで来たときとは違う道で行き、最後に家の前を通れたのがよかった
父は自分の建てた家で苦しみがなく眠れてよかったのかもしれない
今思えば私は親を傷つけるようなことばかりしかしてあげられなかった
愛情があってもうまく伝えられずたくさん喜ばせてあげられることはできなかった
父が死んでも涙は流さないだろうと思ったのに涙は止まらず後悔ばかりでなんて自分は親不孝なんだろうかと悔やんでも悔やんでも悔やみきれなかった
父が亡くなる2日前に社長にもうつらいので会社を辞めますと大泣きしながら話をした後だったので、父は戻って来いと私のことを呼んでくれたのかと本気で思った
今でも父がどこかで見守っているように思えて、私は自分の人生を精一杯生きなければならないと本気で感じた
父の死はつらくても穏やかだったように思える
これからは病気を気にすることなく、天国で安らかに穏やかなお父さんのまま眠っていて欲しい
こんなに親不孝な娘だけど貧乏だったお父さんが私たちの為に一生懸命働いてくれて、大学まで行かせてくれて、わがままでちゃんとお父さんの前で笑えなかったけど、大事に育ててくれて本当にありがとうございました。
私は今お父さんのことを、お父さんの精一杯生きた生き方を誰よりも誇りに思います。
お父さんとお母さんを悲しませないようにこれからの人生精一杯自分と向き合います。
いつまでも見守っていてください。お父さん。
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